神学大全 第一問 第四項 聖教は実践の学であるか
今度は聖教の種類について、それが実践 practicaの学であるか、それとも観照 speculativa な学なのかを論じる。トマスのスタンスは「実践的な学でも観照の学でもあるが、どちらかというと観照の学」という一見結構アバウトなもの。
観照というのがわからないけれど、speculativaだから(スペクタクルとかの語源ですよね)文字通り「観る」学問なのかなと。実際にこうしろああしろ、こういう場合にはこうするべきだ、こうしたほうがいいという学が実践的な学なんだろうなととりあえず。
前項までの議論で、聖教は「神的な啓示」という形相のもとでみられたものを扱う単一の学で、でもその対象の領域は哲学の諸学にわたるとされた。これら哲学的な諸学については「観照か」「実践か」といった区別があるが、聖教の場合はこれらをどちらも包含するとされる。
では「どちらかというと観照の学」と言われるのはなぜか。トマスによると、それがもっぱら人ではなく神を対象とするからだという。ではなぜそれでも「実践の学の側面もある」と言われるのか、それはどれくらい「実践の学」的な側面を持っているのか。
トマスの答えはこうだ。「神の完全な認識」にこそ永遠の至福 beautitude aeternaがある。要するに神においては「知る」ことと「善」であることが完全に一致してる。したがって、その「神の完全な認識」に向けられた行為は「永遠の至福」を目指す、こうすべきという実践の話になるので、そういう意味で「実践の学」で「も」あると。 神を知るということは、その神の完全な認識を知るということで、それが同時に「永遠の至福」であるから、神さえ知ることができれば永遠の至福に人も至ることができることになる。ここで観照と実践が一致する。そのような意味で「どちらでもある」なのだろうけれど、ここで疑問に思うのは、その神の認識が人間には不可能なのでは?ということだ。
人間は神を知るように仕向けられてるが、他方で神を知ることは人間には無理。神を知りさえすれば永遠の至福が得られるが、それは人間には無理。もしそうなれば、簡単に言うとこれは「人間は完全な幸福に至らないように生まれてきたんだよ」「人間には永遠の至福は絶対に手に入らない」ということではないのか。